JA2EZD Wandering World Tour
(復活版 JUL .2007:原版 CQ Ham rdio1989年7月号〜)


15MAR.2012

連載 E 

オジさんたちのカリブ海

   FG


                                                            

 グワダルーペの森 


 僕は39歳で、そのときエアーマルティニークのシートに座っていた。その中型の双発機は真っ白な雲をくぐりぬくて降下しポイント.アピト-ルの着陸しようとしているところだった。南国特有の強いスコールが大地を光らせていたが、Tシャツ姿の整備工達や、白い空港ビルのの上に立った3色のフランス国旗や、プジョーの広告版や、そんな何もかもをゴーギャンの明るい絵の背景の様に見せて僕を迎えていた。やれやれやっとグアダルーペか、と僕は思った。
飛行機が着陸すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーからBGMが流れ始めた。それはジャマイカの英雄ボブマリーが力強く演奏する「アイ.ショット.ザ.シェリフ」そのリズムはいつもの様に僕をすこしハイな気分にさせた。いや日本でいるのと比べ、物にならないくらい僕を興奮させた。

                              
                        
グアダルーペの国際空港→
                   
何と ボンサイ・盆栽を売っていた。


 
やがてフランス人のスチュワーデスがやって来て,気分はどうか? ここは初めてか?と英語で聞いてきた。「大丈夫です、でも余りにも緑が多いので少し驚いているところです。」と僕は言った。スチュワーデスはにっこり笑って行ってしまい、音楽はサード・ワールドの曲に変わっていた。僕は顔を上げてカリブに浮かんだ白い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。 20年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも僕はあの少年時代を風景をハッキリ思い出すことが出来る。

10月の風はススキの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天井にピッタリと張り付いていた。それは青く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。そんな季節にカリブの信号は日本を訪れるのだった。

記憶というものはナンだか不思議なものだ。その中に実際身を置いたとき僕は自分の身に実際そんなことが起こるなんて思いもしなかったのだ。20年後、そんな憧れを実現できるなんて考えつきはしなかった。
正直なところ少年を少し過ぎたころ、僕は一人の美しい女性のことを考え、僕は彼女のことを考え、そして僕自身の事を考えていた。おまけに僕は恋をしていてしばらく無線なんかへ気持ちを向ける余裕なんて何処にも無かった、でも、今でも僕の脳裏に浮かぶ最初の国はカリブだった。


困惑の島グワダルーペ 

「ビザを見せろ。」やはり空港の移民局でビザの提示を求められた。本当は入国目に心配になりFSで領事館に確かめたところ、米国、カナダ日本はNO-VISAでOK との事だった、この島は日本人が殆ど来ないので実際にそれを処理した経験がないらしく「日本人がNo-VISAなんて聞いたことがない、上司と相談してくる。」と言うことで30分も待たされてしまった。だが、これをクリアーしても続いて待っている税関でも目だつアンテナが引っかかってしまいりグ(無線機)を全部見せるハメになってしまった。しかしなんと言っても問題は英語が全く通じないことだ。仕方が無いので仏語のアマチュア無線許可書を頼りに「お願い、お願い」を涙顔で繰り返し泣き落とし戦術である。・・・やはりここも通過には30分掛かってしまった。 あー疲れる。


  

 
                                    
                                                        
バステーラから首都ポイント・ア・ピトールを望む。







 1時間掛けて開放されと思ったら緊張の後だけに嫌にのどの渇きを覚えるので空港の売店でコーラを買おうと$1を出したら受け取り拒否!、フランで無いとダメとの事、では両替所は?と見るとそこには誰もいない、ポリスに聞くと「今は昼休みだろう、この後2-3時間は戻らない。」 ンンモー
仕方がないコーラは諦めレンタカーのカウンターへ行く。 流石車はMade in Franceあでやかな赤のルノー・サンク。
 FSでW2MIGのネットで知り合ったドミニク・FM4EBが紹介してくれたホテルへ行く予定だったのだ。  ホテルへ電話すると100%仏語、全く通じない、仕方が無くレンタカーの事務員に場所を聞くが「分からない、でも多分ここだろう、」・・と地図に丸をつけたところは60km先。 初めての島、初めての車、仏語の道路標識、仏語の道路地図、道を聞くのも仏語のみ、空港からの一連の出来事でグワダルーペはもはや完全に仏語の国に来たことを嫌というほど知らされた。

 それでも持ち前の感の良さで少しのロスでホテルへ辿り着く、我ながら土地勘の優秀さに感心する。  たどり着いたホテルは「バカンス。ビレッジ」と言いフランス人の長期滞在型のバンガローで年配者が目立った。ここで支配人が少し英語を話すので安心するが、想像していたような大きなホテルではなく両替が出来ない。 ともかく部屋に入り近くの雑貨屋へ買い物に行くが中学生くらいの少女が店番をしている、やはり英語が分からない。そしてここでもUS$の支払いは拒否されてしまう。 本当にお金も、言葉も通じないと言うことはいかに情けないことか嫌というほど味わう。

そんなときフランス人としては大柄な50歳位の人が見せに入ってきて、僕の様子を心配して尋ねてくれた訳を話すと、英語と仏語が分かる彼は僕の為にジュースとパンを買ってくれたのでUS$を払おうとすると、彼は受とらない。 「俺が東京へ行ってもきっと同じような目に会うに死がいない、そのときお前が助けてくれればそれで良いさ。」「じゃーきっと東京で借りを返すから日本へおいでよ。」

本当に困った時の見知らぬ他人の親切はほどありがたいものはありません、ましてやこの日本から遠い異国の地ではなおさらです。でも、こんな人の情けに触れることができるからこそ未知を求めて旅が出来るのかも知れません。

夕方になって本日始めての食事、ジュース1本とパンにありつけたのです。 今日は緊張と心配の連続で後はバタンキューー
夜中あまりの暑さに目が覚めて水道の水を飲むが、これがいけなかったのかそれとも僕の持病デート前に良く起こる「緊張性下痢」が発病したのか、翌朝おなかの調子が悪い。しかしお金が無くてはどうにも成らないので無理してまた60km走って空港に戻り両替をする。 そして車も山でのJCCpediスタイルの運用を考えて1ランクアップのプジョーに変えた。


1日だけの文学少年。 

FG(グアダルーペ)へ来てFSでの疲労が一度に出た感じだ、体がだるい・・(ヒロオ/疲労 って名前が悪いかな?)アンテナを上げる気力が起こらない。
FS最後のとき毎日コールしてくれたJG1SRBが何気なく言った「実はFGはまだやってないのです。明日を楽しみにしています。」との言葉が心に残っている、こういうKIkkoさんの様な控えめの局にはぜひQSOをと考えるのだが・・やはり体が言うことを聞かない。 大いに迷ったが悪性の下痢でないことを信じて1日休養を取り明日に掛けることにする。

 多くの技術屋が苦手の様に僕オ文学とか誌的表現の世界は苦手です。(これがYL(女性)アイボールQSOの障害になりやすい。)そこでこの機会に新聞によくある「文学の故郷を訪ねて」の海外版をやってみることにしました。

 椰子の木陰の浜なすの香りが漂うこの白砂のビーチで日本から持ってきたヘミングウエーの「老人と海」を読むことにしました。
  
      




火山島なのでブラックサンドビーチである。





でも、これって文学好きな人には最高mの贅沢ですよね、物前は物語の舞台となったカリブ海、頑固一徹な老人、貧しい漁村、そんな物語の光景がここFGでは普通の情景として今自分の目の前にあるのです。小説の一文字、一文字が大スクリーンの様に目の前に展開します。

たまには無線少年から文学少年への変身も良いものです。

       ★今回は一部を、村上春樹調でお送りいたしました。




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Fへ続く。




 



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